昭和50年11月16日 朝の御理解



 御理解 第80節
 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。みな、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がておるがよい。」

 年寄りを大切にすれば、(   )段々年を取ってきて、本当に若い人達から大切にされれる、内容を頂いておかなきゃならない。本当にそれは神様に大切にされると言う事です。信心いうたらね。昨日富久信会が終わりまして、昨日と今日は、今晩は誰ぁれも足を揉んでくれる者はおるまい。(   )けれども、もう毎日毎日が徹夜ようになっておりますので、御話しの中にも(   )話を続けれども。
 今日はとても(   )文男さんと嘉朗さんとふたぁりできて、それで又二人しでしんから揉んで貰いましたがら、(   )それからお風呂頂いたりしとります。(   )皆んなまえの晩も二時半でした。今日もやっぱ二時半。それでまぁ足揉んで頂きながら、文男先生が言うのに、この頃親先生あんたもうほんとに年を取ったということに、第一ね、例えば揉みよってから分るのかも知れませんけれども、そのうほんとにこの頃(   )かというこの(    )この頃顔色がわるかったぁ(          )
 まぁ信心を頂いておるおかげで(   )まぁ大事にしていくなった仰っている事ですけれどもね。大切にして下さる。これからもう私しは、いうなら信心をいよいよ深めて行く事に取り組ませて頂いて、おかげを頂けば、ますます神様に大切にされることだろうと思います。それで私しは御神前で、草冠に成るという字を頂きました。この草冠を自然と言うと、自然になると言う事。それはもう合楽の信心をひとことで言うならば、自然になったと言う事だと思う。
 あぁせねばならん、こうせねばならんと言うな事ではなくて、自然そうしなければならなくなってしたのです。例えば椛目からこちら合楽へ移って来るでも、もう今年おおなったけんでちょっと(   )移ったのではなくて、そうしなければならなくなってそうなったのです。ですからまぁいうなら椛目でもあれだけの設備も出来たし、駐車場も丁度椛目の(  )ちゅうの所だけは、皆んな合楽の当時(   )の駐車場。
 設備もだいたいあれだけ出来て来たから(   )思うておったけれども、どうもあそこではいけないと。周囲から言われることになって。ここへ合楽へ移らせたのですけれども。ここではいけないあちらへ行け、善導寺からも一里、田主丸からも一里と言った様なところに、行ってもらわなければできん。でなかったら教会の認可もできん、と言う様な事で、まぁ無理ことを言いなさるとこう思よったけれども、実際はそういう働きがあってここへ来たんです。そしてならいよいよ、まぁ繁盛の一途を、たどらして頂いているんですけれども。
 本当にあのう自然にになってきた。これからも自然になって行く事だろうと思います。ならどうしてそう言う風に、自然がいつも合楽の見方で会ったり、合楽のバックであったりなかったかというと、その自然そのものを大切にしたからであります。いうならば自然を大切にすると言う事は自然の働きそのものを大切にしたからであります。それは様々な事がありましたけれども。良い事悪い事、苦しい事悲しい事、様々でしたけれども、自然んの働きそのものをいわば合掌して受けた、又は元気な心で受けてきた。
それが私は成り行きを大切にするというふうに、皆さんに聞いて頂いて又は全ての事に、もうこれは御神慮であると言う事が確認されてきた。自然の働きそのまま、天地金乃神様の御働きであるということが分かったて来たから、それがどういう事になろうが、自分が好こうが好くまいが。それを大切にして行くと言う事が、本当な事だと分らせて頂いたところから、だから神様が下さるのだから、自然がそれを求められるのであるから、それを御の字を着けて受けて行くと言う事にまでになってきた。
 分ったから。年寄りを大切にすると言う事でもそうです。世の中には様々な人があります。本当に世の御役に立った、立っていた人もあるし。又は世の中から爪弾きされる様な人達もやっぱりあります。やっぱり一緒に年を取っていっとります。けれども私の筆法から行くとです、私し受け方から言うと、どんなになら良い事をして来たお爺さんでもお婆さんでも、あんまり人から好かれなかったお爺さんでもお婆さんでも。決して無駄な事ではなかったと言う事です。
 お芝居の中にでも、いうならそういう善人ばかりでは芝居にならん。そこに悪人もおったり悪役もおったり、二枚目もあったり寝姿があったり。様々のがあって一つの芝居が形成される。世の中もそうです。そういう意味でその人は不が悪くて、悪役ばかりをして来たと言う人でも。大きな神様の見地からすると、御役に立って来たわけですから。やはり信心させて頂く者は年寄りを大切にしなければならないと言う事が分るでしょう。こりゃもう信心の眼で持ってです、年を取って来る段々力がなくなって来る。
 自分で自分の自由すら出来ん様になってくる。それを大切にしなければどうしますか。御役に立って来た人達ですもの、そこに本気で務め本気で成就と言う事が、大事でありますけれどもやはり何と言うですかね、虫が好かんと言うのもあります。それは虫が好かんのですから、自分の虫を取り除く事に努めますと、皆んなが神様の御役に立って来たと言う人達ばかりになって来るのです。先日丸少の時の父兄会の時に、私がいつもお話しさせて頂くんですが、原の若奥さんが話しておられますが。
 本当にいわば仕事、親、お爺さんとお婆さんが居られる所にお出でられて、なんとはなしに、お婆ちゃんとはいうならば虫が合とるというか、もうそれこそ口の中の一つしかなかもんでん、こうやってあげたい様な感じがするけども。お爺ちゃんだけにはどうにもその気が起らなかった。務めても務めてもだめだった。何かこうお母さんの肩をもんでやっておられる、お爺ちゃんが入って来たらやっぱお爺ちゃんにも揉んでやらにゃんごたる風な、そうすとお母さんの肩をやみゃうごたる感じがしよったと言う風にいう。
 いわばあんまり虫が合わんとですよね。それかと言うて、私共みてはとても品の良いおじいちゃんでした。けれども虫が好かんのです。けれども信心を頂く様になって、こういう事では成らんと言う事に心がけさせて頂いて、一生懸命お爺さんが変わんなさることじゃない、自分自身が変わる事に努めさせて頂く、いわゆる自分の好かんと言う虫を取り除く事に一生懸命になられた皆さんあの家庭の中でもね、特にその姑と嫁との間の事なんかは、どうしても性があわんというのが。
 それでもやっぱ円満に行かんならんけ、言いませんけれどもそれいつか誤魔化すと言った様な事になって来る訳ですから。ずっと一つ同じ屋根の下に暮して行くのですから、虫が好かんとがやっぱおるならいかん。そんためにはですね、自分の方の虫を取らにゃいかんです。そして精進に精進をさせて頂いておりましたら。本当にお爺さんが亡くなられる1年か2年ぐらい、前位からですもう本当に自分でもわからない、もうとにかくあのう、もぞもぞしゅうごとあの、好きになったと言われる。
 それから1年余りも休み着かれたでしょうか、もうそれこそ尻からなんかさしてもらわんならんとが、それがなんか有り難うして楽しゅう出来るようになったというておられます。本当に亡くなられる前に、例え1年でも2年でもお爺ちゃんが、それこそもじょもじょするごとしたいごと好きになられたと言う事が、今から思うてみてです。本当によかった、もしあれが虫の好かんままあの世この世と分れておったら、それにどんなに後悔を残したか分らんと言う様なな話をしておられます。
 どんなに年寄りを大切にせよと言われても、あげな根性の悪かもう婆さんやら、頑固な爺さんやら大事にしゅうごとなかごたある。けれども今日神様見地から言うとやはり、御役に立って来ておる人です、そりゃ人をいじめたりこなしたりする人じゃったかも知れんけれども。そういう人も世の中にはおらなければならない、大きな神様の一つの大きなドラマの中にです。善人も悪人もやっぱりおらなければ、ドラマがドラマにまぁならんのです。そういう御用に使われてきた人なんです。
 人からあんまり喜ばれもせんなり生きたと言うなら、いよいよ気の毒そこでせめて信心させて頂く者は、そこの所をようく心がけておけとこう仰っておられます。信心する者はよう心がけておけ。今日ここに若い者でも役に立つ人は、何となく人が敬う様になる。不都合不行き届きが重なれば、敬うてくれぬと言う事を言っておられます。私はね。もう手遅れにならん様にそれこそ信心させて頂く者は。最近はあの合楽の御教えは若い人達熱心になって、朝の御祈念に若い人がだいぶん多くなってきた。
 大変有り難い傾向だと思われます。ですから本当に手遅れせんようにです。いわゆる転ばぬ先の杖と仰せられるのですから。折角信心をさせて頂くのですから、世の大きな神様が書いてござる筋書きの中にある、いうならお芝居の中のほんとに善人役を務めさせて頂けれるおかげをいあただかなければ。これは信心させて頂く者は是非そこのところのおかげを頂かなければならないと言う事です。
 昨日お道の新聞を見せて頂きょりましたら、誰かの随筆の中に、「落語の手遅れ医者」という話がでとりました。それにお医者さんが、もう病人が来ると、あ、こりゃもうちゃっと手遅れした。もう手遅れしとると必ず言われる。だから人が手遅れ医者とこういう、そりゃもう手遅れしとると言うた方がですね、医者としてはよかろうごたる気がするです。そういう医者がおるです。もうえらぁい難しい顔する。こらぁちょっとと言うちから首をひねる。こりゃちょっとばっか手遅れしとる。
それをこんだおかげを頂いて全快すると、ほんと手遅れになっとる所を、あのお医者さんから助けてもらったと、言うふうに言われたい感じがするらしいですね。そういうのがあるんです。医者の中にそういうのがおるです。もう難しいばっかり言うとるです。はぁ心配いらんですよと、例えば心の中にゃこりゃもう難しかて言うごたるとでもです。私は小野先生によくそれを言うです。医者さんでそれが言えれる信心を、お医者になんなさいて、そして本気で神様にすがってあり、本気で治療に当らして頂く。
 頂いたらもう気分的にもう助かる。気分から助かるから形の上にも助かる、いわゆる精神医学と申します。精神医学と言う医学でどんどん助かる事になって来るんですから。お医者さんの、はぁこりゃ手遅れもうこりゃ私共じゃ難しか、てなんてんこたぁ言いなさんな、もう重体が来れば来る程、もういつかそんなお届けがあったんです。もうこの頃はあんまり重体ばっかりだから軽るか患者が来る様にという、あんたばかじゃなかろと私は言いました、例えばその重体なら例えば死んだっちゃならもう諦めが早うつく。
 ところがそういうとが助かってご覧なさい、小野病院であげな言うなら大患が助かった。金光の先生でもそうです。こりゃもう町内に酒屋さんとか材木屋さんとかちゅ大きな、いうなら物持ちやら金持ちやらがあると、うちの先生が来てからあげんとば導く、あげんとば信者にせにゃ。と言われる話を聞いたことがあるですどこか。あたいはそげんとはふるふる好かん。ふるふるすかんてはおかしかばってんですね。もう本当にやはり難儀な氏子が助かって。
 大きな酒屋さんにもなりゃ、大きな材木屋さんにもなったでなきゃ役に立たんです。ですから本当に重体患者が来ると言う事は、おかげです。以来そういうお届はされんごとなりました。ですからね、その話が余談になりましたけれども、そのう手遅れにならん様な信心をせにゃいかんね。倒れぬうちの杖と仰るから、それこそ神様が先回りをしておかげの、おかげを下さる様なおかげを頂いたり、現しておるのが今の合楽です。お金が要るなぁと思うと、はぁ昨日は大変売り上げが多かったが。
売り上げというのじゃないですね。昨日大変売り上げが、売上じゃない。御初穂が多かったとこう思よると、明くる日はねそうではない。しゃっち払わんならん様なことが起きておる。昨日大変売り上げが、売上じゃない。御初穂が多かったとこう思よると、明くる日はねそうではない。しゃっち払わんならん様なことが起きておる。先回りをしておかげを下さる。もう最近はそういう事はありません。いまは合楽にはゆとりが出来た。借金が亡くなった、銀行に預けるばぁかり。
 ですからありませんけれども、ついこの頃まではそうでした。けれども最近期限まってくれんのちゅ事はいっちょんありませんでした。これは言うならば自然を大切に致しますから、自然が大切にして下さっておった状態です。神様が先回りをしてそれこそ転ばぬ先の杖をつかせて頂いておったおかげで、いわば手遅れにならんですんでおったおかげで、いうならそういうおかげを頂いてきて、今日尚それを現しておるのでございます。そこで今の。今日は若い青年会の集会が朝からある一日あるそうですが。
 今日は特にこの若い者でも役に立つ人は何となく人が敬うようになる。不都合、不行き届きが重なれば敬うてくれぬようになると、言われておりますからその若い方達が、本気で手遅れにならん様な、この若い身空でいうならば信心修行。ちった酷な様にありますけれども、その事が楽しゅうなり有難うとうなってきたら良いのです。それこそ若い者でも敬われると言う事は、神様から大切にされれる若い人。
 それが歳を取って行くならばです。それこそまぁ今晩は足の揉み手はなかじゃろかと思いよってもです。思いもかけない夜中にでも足揉みに来て下さると言う方達がある様に。退職され、今日はここの所をお互い信心させて頂くのですから。本当に人から尊ばれ大切にされる様な年の取り方をしようと言う事と。なら世の中には虫が好かんと言う人もありゃ、年寄りもある本当に若い時から、こうろくな人じゃなかったと言う人でも。大きな見地から天地の祖神様の目からご覧になると、それも神様に使われてきた。
 言うなら悪役善役の、その悪役をつとめてきた人だから、いわば尊ばなければならん、大切にしなければならん。けれどもどうも虫が好かんとこを、ただの若奥さんじゃないけれども、本気でそこんところを精進さして頂いて、虫が好かんと言う自分の心の虫の方を、取り除く事にさして頂いたら、いうならば年寄りがいわばそれこそ、もじゃもじょすうごと、好きになったと言う様なおかげが頂かれる。と言う事と。
 若い者が言わばもう手遅れと言った様な、あとで、ほんとに若い時にしっかり、まちっと信心の基礎を作ときゃよかった、と言う様な事のないような信心をです。私しは折角若いうちに御神用を頂いて、合楽でおかげを頂いておるのですから、いよいよ本気で不都合、不行き届のない、人に役に立つそれこそ若い者じゃなきゃできん、お役を言わば努めさせて頂く様な、おかげを頂かなければいけんのです。
昨夜富久信会で、皆さんの御話しの殆どがです。自分が改まるところからおかげを頂いた、自分が改まって自分か楽になって嬉しゅうなったと言うのが殆どでした。私は昨日は、ほんとに昨日有り難いと思いました。特にあの矢部の古川さん、大きなお茶製造をしとられるんです。沢山お茶園を持っておられます。それこそお父さんが亡くなられて、若いのにもう5人どうしてよいやら分らずに、段々左前になってきて、去年の12月にはどうにもこうにもぎっちりいかんごとなって、御神意を頂いたからです。
 そして1年間おかげでいろんな機械の設備をもでけたり、それから職人さん達も御繰り合わせを頂いて、売れん筈のが売れると言った様な、御繰り合わせ頂きながらおかげを頂いとるんですけれども。昨日発表しておられるのに、私しは皆さんが発表して、私しは昔からですね、その人間がずるかったと言う事を言われたです。昔はですね、あの人にゃ気づかれんごとするけど、私しゃ大体人間がずる賢こかった。
 それがこの頃はですね、例えば仕事一つさして頂くでも、もういうならづうから、ほんと御用とさして頂くようになったら、この頃からその仕事が楽しゅうしてならんごとなったという発表をされました。それはあのう一緒に参って来る村内の方がそれを言うんです。あの人はもうろくな人じゃなかったと言うふうに。やっぱとにかく信心さしゃるごとなってからほんに人間が二人見るごと変らっしゃったと周囲のものが言うんです。それを自分でも気が付いておるんです。
 人から褒められる、そげなこつじゃないもうとにかく仕事そのものがね。言うならば楽しゅうなった来たと言うんです。言うならば裏も表も大切にするようになった。今までは陰で日向の心であった、表を大切にして裏はいいかげんにしとったけれども、最近はその裏の方を大切にさして頂く様になったから。仕事が楽しゅうなったという訳なんです。そういうふうになったら、なら村内からでも尊ばれるとか、大事にされると言うかね。大切にされるようになって来ることは、もう火を見るよりも明らかです。
 と言う様に信心さして頂く者はね、そう言う風に変わって行くと言う事。そしていよいよ神様に大切にされると言う事。取も直さづそれは人の手を持って、なら私しの足をもんで下さる方が次々とあるように、神様がおかげ下さりょるとじゃけれども、人を使うてなら大事にして下さるおかげが受けれれる。段々一つひとつ(   )例えば御用ばしよったと、こりゃ歳を拾うて行くのですから、歳寄けれども行くに従って心の中の有り難いと言うものは、大きく(   )この様に、例えばおかげを頂けるのも。
 いうなら今日の茂という字じゃないですけれども、草冠に成って行く、成就していく。自然ぇんに成就していく。もう自然ぇんにだからそりゃ、もうぼうちぼちじゃろうと言うた風で、決してそうじゃない。もう自然の働きが起きてきたらもう、それこそどうにもいうなら、合楽がこうしておかげを頂いておる様な働きが生まれてくるのです。そのためにいよいよね、いわば成り行きを大切にさして頂いて、どういう事がうまかんでも、その成り行きの中にこちらが溶け込んで行く。
 溶け込めないでもそこにひと修行さしてもろうて、溶け込んでいく。嫌いな人の中でもこちらが溶け込んでいく。嫌いなら好きになる様に溶け込んでいく。そういう精進をさせて頂くならばです。又そういう心掛けを持って信心をさせて頂くならばです。必ずいわゆる成就のおかげ言う事にとなって参りましょう。私しが昨日も見解を申したんですけれども。自分が努力して成就した様なものでは、いわば一代仏に終わってしまいます。子に孫に伝わらん。
 けれども神様の御かげでと実感して成就してきたことならば、それこそ家繁盛、子孫繁盛の元に必ずなる。それには神様を大事にしなければいけない。神様の働きそのものを大事にしなければならない。それには自然の働きそのものを大事にして行かなければならない。それに溶け込んで行かなければいけない。そこに成り行きの中に溶け込む。自然の中に溶け込んでいくと言う生き方は、自然を生かすことだと言う実証をです。私共はして行かなければならんと思う。
 (   )私の足を揉んでくれながら、私が歳をとったと言うと、からでしたがこの頃、そうそう13日会の日でしたが、茂さん足を揉んで、あの帰っておられましたから、あと足がえらい痛むから誰かおらんか、幹三郎と( )先生、それから永瀬さんのところの勝国君と、梶原君と4人で、(   )ひざから上を誰々、下を4人そして肩がこっとる。6人で揉んで貰うと、ほんと早うすむわけですね、一人ずつ30分づつもんだっちゃ4人で揉むなら2時間ばっかり。
 ちょうどい1時間ばっかり揉んでもらったから、2時間もんでもらったごとなるんですよ。とういう位に最近私しは足が痛い、揉んで貰っとかんと痛むんですよ。もう立ち上がる時痛い、痛いちゅうがその、何かきりをもむ様に痛いとかね、何か病気で痛いとかそうじゃないです。あのうここねき長ぁく坐った時に足が痛いでしょうが、あの痛さのひどいとです。だから一時がたがた揉みょうるとね、良く成るです。( )なるとそうです、まぁ毎日そげなふうで何時間ち私しの足を揉んで頂いておるわけですけれども。
 神様が例えば、運動を指して下さるとか、散歩でもさして下さるとかと。もういうならなんだけれども、散歩も行かんし、運動もお許し頂かない所を見ると、こりゃ神様は私がこうして足が痛い方が好いてござるとじゃろと言う事です。だから一つの、まぁ達観と申しますかね、いっとるといいますか、ちょうど私しが今、毎日こればっかりここに9時間は座る訳です、これでどげん少なかったちゃ9時間な座る。朝の3時半から8時半まででしょ、それから1時から4時半まででしょ。ですから9時間は座る訳です。
 以前はやっぱり13時間坐りょったですからね。椛目の(  )から(  )と思うんですけど、金光様の真似をしたわけでしょうけれど。いまでも9時間だけはこれはもう必ず、いうなら楽に横座りをするとか、あぐらをかくとかと言う事ではない、やっぱりこの正座しとかなきゃなりませんから。だから立った時なっと神様は散歩をさして下さるとかね。私に運動さして下さるとか、と言う事をお許しいただかん。
 とても訳ゃ分らんのだけれども」、あのう付根のとこの何ていいますか、9時間も座るから足が痛いこれは一つ観念です、だからそのうこれな大体は、そういう観念は捨てなければいけない、まぁそれに取り組んで来たかと言う事ですけどね、大体は信心は観念をなくしてしまわなければなりません。こうだからああだろうと、あれば食べたけんここがこうあるとじゃろうという観念を捨てなければいけない。神様の御用をさせて頂いておって痛いのだから。
 これは痛む筈はない、痛んでもそれは神様の御都合という頂き方が出来る。そこでまぁあのまぁそういうふうにすっきりとした観念が出来れば、痛みもしませんかも知れません。けどそこが生身ですから、やはり9時間も座りきるという積りがあるもんだから、足が痛むけれどもそこでなら私しがあのう、神様と一緒になり得る心と言うのは、神様が私の足に対しては,好いてごじゃるとじゃろというところですよね。
 ここに神様と一体になれる生き方がある。素晴らしい、私寝ながらその事を言いましたら、えらい感動が起って来るんです。(  )だから神様がならあのう、私が足が痛い、そしてこの立たれんごとともなりゃ尚この神様は喜ばっしゃるとじゃろうと。いう実感ですこりゃ。ずうとここに縛り付けておいて、わがよかごと出来なさるわけですから。神様は足が痛むと言う事も、神様は喜び御座る、神様はそれば好いちゃる。
 そしてもっといくなら痛くなって、このう一人立ち上がりきらんごとなったら、もういよいよ神様は喜びなさるじゃろうと言う様な、あの考えのなかにね。神様と一つになれれる、神様と一体になれれる信心が有り難いですね。だから例えば皆さんがなら、まぁ貧乏なら貧乏の難儀をしとんなさる。親先生にお願いしても貧乏から脱出来ん。神様があたしが貧乏することを好いとられるとじゃろう。
 と思うたらあのうきたきたぁと神様と親戚のごたる感じがするになるんですよ。ほんと。だからね本当にそういう所にね、あの神様といつもこう交流する、手立てと言うものはやっぱつくらにゃいけん。ぺっとの言葉ではずみで印刷したごたるだけではいけない。もう本当に活字と活字の合中に、文字があるそれ分っていくとが信心である。なら私共が歳と共にいわば難儀ですけれども。9時間も座るから足が痛い。
 それは観念大体いけない事。けれどもそこは生身の事だから、しかし私が足が痛いと言う事はいなかったら、散歩をせろとか、運動せろとか、言いなさる筈ばってん、そうお願いしても散歩する許されない所に、と私しが足の痛うなる事を神様は、好いてござる、喜んでござる。いやこれがもっと動かん様になるなら、まぁだ喜ばっしゃるじゃろうというな感じが、こりゃするんです。そこに神様と心の上に何とはなしにぐぅとこう交流するものが出来て来るですね。